熊野妙法山 阿彌陀寺とは?

 

今から約1300年前、大宝三年(西暦703年)唐の国 天台山の蓮寂上人というお坊様が日本に渡って来られ、この熊野にたどり着きました。上人は四方を見渡せるこのお山の頂上がとても気に入って、ここで修行をすることになったのです。妙法蓮華経というお経を写経して山頂に埋め、立っている木をそのまま彫ってお釈迦様の仏像を安置しました。その時からこのお山は、お経の名前をとって妙法山と呼ばれるようになりました。

 

その後、空海上人(弘法大師)が高野山を開かれる前の年、弘仁六年(西暦815年)に妙法山で修行をして、西方に有るという阿彌陀如来の極楽浄土への入り口として山腹にお堂を建てて阿彌陀如来をご本尊としたため、阿彌陀寺と名づけられたのです。

 

それから現在に至るまで、有名無名のお坊様達や行者達をはじめ熊野に参詣する沢山の人々が、それぞれの求めるものを探してこの妙法山に登って来ました。

 

妙法山 奥の院の話

蓮寂上人(れんじゃくしょうにん)

 

 

今から1200年ほど前、唐(今の中国)の天台山という仏教の聖地から蓮寂上人というお坊さんが、熊野へやってきました。上人は「妙法蓮華経」というありがたいお経をひたすら唱えることで、自分や世の中の人の罪が許されるという教えを信じ、そのために一生懸命に修行を続けている行者でした。

 

熊野に入り那智の大滝の前に立った上人は、その雄大さと神聖さに心を打たれ、「この熊野の地で修行をしたい。きっとこの大滝の奥にはそのための場所があるはずだ」と強く思いました。心を決めた上人は木々が暗くうっそうと茂った山に一人分け入り、奥に奥にと登っていきました。

 

登り始めて1時間余り過ぎたころ、木々の間からふいにまぶしい陽の光が差してきました。その光に導かれるように、まるで崖のように反り立った数十メートルの山肌をよじ登ると、そこには今までの暗く深い山とはまるで別の世界が開けていました。頂上は周りになにも視界をさえぎるものがない10m四方ほどの平地になっており、真正面からふりそそぐお日様の下に水平線が半円を描いたように広がり、眼下には熊野の海が陽光を反射してきらきらと輝いています。振り向けば背後に熊野の山々が連なり、はるか遠くには富士山が見えていました。

 

上人は思わず声をあげました。

「まさしくここは十方浄土。見渡す限り極楽浄土のようだ」

 

こここそが求めた場所だ。上人はこの頂上で修行することを決意しました。それから毎日、那智の大滝で身を清めてはこの頂上に登り、そこで妙法蓮華経を書き写しました。経文一字を書く度に仏様に三礼(立ち上がったり、座ったりを三回繰り返す礼拝)するという大変な修行です。来る日も来る日も写経を続け、数年の歳月をかけてようやく妙法蓮華経は完成しました。上人は完成した妙法蓮華経を頂上に埋め、山の中に立っていた木を彫ってお釈迦様の像を作り、その上に立てました。その時からこの山は妙法山と呼ばれるようになったのです。

 

今も妙法山の頂上には、奥の院浄土堂という小さなお堂にそのお釈迦様をおまつりしています。